「人間は幼い」  04.08.29
            ルカ18:15〜17

 神さまの愛に包まれ、守られ、養われ、導かれながら地上の歩みを
進め、神の国の永遠の命に向かって行く。そんな、神の国の民として
人生を進んでいけるのは、どのような人なのでしょうか。
 イエスさまは、幼い子供をご自分のところに呼び寄せ、幼い子供こそが
神の国にふさわしいとおっしゃいました。
 そうおっしゃったのは、弟子たちが思い違いをしていたからです。
 この直前に、弟子たちは幼い子供をイエスさまのところに連れてきた
ことを叱りました。幼い子供たちが、イエスさまのそばにいることを、
ふさわしいとは考えなかったからです。
 イエスさまにふさわしいのかどうか。神の国の民としてふさわしいのか
どうか。弟子たちも、そのことに心を奪われることがあったでしょう。
私たちもそうです。自分がクリスチャンとしてふさわしいのかどうかに
心を奪われ、悩むことがあります。クリスチャンになる前だけでなく、
なってからでもです。そして、不安になったり、あせったり、自分を責めたり
します。
 この時の弟子たちのように、ふさわしくないと人のことをみなして、
その人を責めることに夢中になる事さえあります。ふさわしい…?
そこで悩む者にイエスさまは、「この子供を見よ」とおっしゃるのです。
 「子供は純粋で美しいものを持っているから、それを見習え」と
おっしゃるのではありません。イエスさまの側にいるのは、何も持って
いない子供なのです。「乳飲み子」という言葉は、何も持たず、ただ受ける
しか出来ない存在を強調します。それでも、神の国を受け入れる。
その一点で神の国の民とされるのです。

 ふさわしさは、「持ち物」や「出来ること」によって生まれるのでは
ないのです。 イエスさまの与えて下さる救いを、信仰によって受け入れる
かの一点にかかっています。 受けるしか出来ない子供でよいのです。

 
イエスさまは、「わたしが差し出す救いを受け入れればよいのだ。
 焦り、不安におののくな」と励ますために、「私の側
(そば)にいる
この子供を見よ」とおっしゃいます。